昭和46年09月10日 月次祭
生き方が出来ると言う事なんです。ですから本当なことが分り、本当な生き方をさしてもらう。だからより本当なおかげが、これはもう確実についてまいりますね。これでよいと言う事はありませんし、私共の信心というのは、だから限りなく、もう進展に進展を極めていかなければならん。だからより本当なことが分からして頂く。いわゆる真理の追究とでも申しましょう。追求するだけではない。
生活全体が本当の生活になっていかなきゃならない。そげな本当なこっちゃ、そうにゃ難しかことじゃろうとこう思いますけれども、本当なことが分かっていけばいくほどに有り難うなり嬉しゅうなりね、それこそ暑くても暑さを感じんほどしの、寒くても寒さも感じんほどの、いわゆる極楽の世界が展開してくるというんですから、楽しいことです。本当なことが分かると言う事は難しいこっちゃない。
まあ本当なことは分からんでも、まあおかげさえ頂きゃええと言う様な、まあ人もありましょうけれども願わくば本当なことが分かって、本当なおかげを頂き、終わりたいと、まあ思うのでございます。教祖金光大神はそのようなことを御自身が身に受けられて、そのことを話にして残しておってくださる。そして皆もこのようなおかげが受けられるとお約束下さってあるのですからね、ここのところに焦点を置いて、お互い信心をさして頂きますとこれでよいということはありません。
だから、金光様の御信心は決して、この割り切れないのです。 まあ今の言葉で言うとね、「ドライな」とこう言うですね。そういうドライな信心では、だから本当なことはいつまで経っても分かりません。そこまでしか分かりません。だからおかげもそこまで。そこで、神様は絶えず私共により本当のおかげを頂かせてくださろうとする働きがそこに始まるわけでありますね。
ちょうどお祭りの始まる前に久留米の光橋先生がお届けをされます。一番下の娘さんが市内に縁づいておられます。今度2人めの赤ちゃんができます。ところが、その、えらいやせておられるうえに、もう骨と皮のようにやせられるもんですから、病院に行かれた。ところが産婦人科の方へ、まあ行かれたところが、妊娠何ヶ月ということが分かった。ね。
ところがこのまま産ませたら母胎が難しいとこう言う。ところが最近、お腹がせくことがあるから、そんならそら内科に一遍行かなきゃいけないちゅうので、内科の方に行った。ところがです、内科の方は、これは、何とかが、胆石ができてると。だから胆石を、切開手術をして、摘出しなければならないということになった。勿論そのためには子供を犠牲にしなければならないとこう言うのである。
そこにまた婦人科の方へそう言うたところが、今子供を出しよったら、母胎の方がもう難しかと言う。もうどっちにしても難しかちゅう。内科の方が言うとおりにしても難しか。婦人科の方が言うとおりしても今のこの状態では難しかとこう言う。まあいうなら、ここんところにね、まあ両方から見捨てられたのですから神も仏も、というところでございましょうけれども、ここから私は助かっていけれる道をね、お互いが頂いていかなければならんと思うのです。
そのお取次が終わったら次に、あの文男先生が、今日は親子三人で参って来ておりました。本人はそうちゃほどにきつくないのでしょうけ、一緒に参って来ておりますから。長女のなおみさんが、何かどうも鼻の具合が悪いちゅうので、何日か前でしょう、病院に行ったところが、その、それこそ、お医者さんが首をひねるような病気だった。丁度鼻の中にできる肉腫、肉腫のようなもんだそうです。いうなら大変な病気。だということが分かった訳なんです。
まあそのここで、いうなら先生と呼ばれる人達の、子供さんのそのしかも、そういう絶対、まあいうならば絶対、人間の考え方で言うと絶命と言った様な所に、まあいうなら追い込まれてのお取次である、お願いである。で私はね勿論神様のご都合であると確信します。だから決して困ったことじゃないと思います。けれどもその問題がです、生死にかかわる。命に係るというほどしに、それが医学の上でも解って参りますと、親たるものやはり一心に信心をしなければおられないことになってくるでしょう。
そこでね、私は神様に「どうぞこのことを通しましてより本当なことが分からして頂きますように」とお取次をさして頂いた。そのことを通してより本当なこと。今まで文男先生が信心は素晴らしい。皆がそう言うておる。光橋先生の信心は素晴らしいと言うている。けれどもね、神様はより本当な信心を分からせようとなさっておられる。より本当な信心を光橋先生に神様は求めておられると言う事をです。
本人達が悟らして頂いて、そこから今までとは違った本当な信心に向われるところに、もちろん病気の上には全快のおかげを頂くでしょうが全快のおかげを頂いたその時には、すでにもう、今までとは違った、より本当な信心の生き方というものを身に付けておるということになるのです。ですからね「難あって喜べ、難はみかげ」とこう仰るが、私共がこれは難と普通では言う時に「はあお母さん、これでまた私達が一徳受けられるぞ」と。「考えて見ると俺達の信心はもう怠慢だった」ね。
「月次祭たんびにどもお参りすればよか」ぐらいな信心じゃった信心がです、本気での人並みの信心ができるようになるぞ、子供の病気を境にと言う事に、例えばなりましたら、問題ない訳なんです。ただそこんところをどうぞ、この病気を治して下さい。どうぞここんところの道を開いて下さいと願っただけでは、よし願っておかげを頂いてもそれだけのこと。そのことによってより本当なことが分かると言う事。そのことによってより本当な生き方ができると言う事。
そこで皆さんがお話聞きながら、その段々より本当なことになっていくと言う事は難しいことのように思いますけれども、本当なことが分かれば分かるほどしに信心は楽になってくると言う事。信心が分からんからそこに行き当たりここに行き当たりして難しいのであって、本当なことが分れば分るほど、信心というものは楽である、有難い楽しいね。日々が勿体無いという生活が、そこにある訳なのであります。
昨日、昨日の朝の御理解ですかね、御神前で私、御祈念をさしてもらいよりましたら、もう見事な一升徳利です。もうあんな徳利見たことがないくらい。徳利です。昔のお酒入れる器ですね。今はもうびんばかりです、昔はこのような一升徳利ちゅうのがあった。それが何とも言えん優雅な、その徳利にですね、これにちょっと小さいほどしのぐい飲みが付いてある。杯じゃないね。どう言う事じゃろうかと私は思うておった。
そして教典を開かして頂きましたらね「信心とは和賀心が神に向うのを信心というのじゃ」という御理解でした。「信心とは和賀心が神に向こうていくのを信心というのじゃ」と。「信心なければこの世は闇なり」ね。光がなければ、光が灯らなければ夜は闇であるように、信心がなければ世界は闇だというのである。それでならお互い、まあ金光様のご信者さんだけでも随分信心しよるけん、ちいとは明るうなるじゃろうかと思うばってん、ひとつも明るうならんとこのひとつ。
そういう信心ではないちゅうことが分かる。金光様を拝みよります、金光様を祈りよりますというだけでは信心じゃない、ここではね。「信心とはわが心が神に向うていくのを信心というのじゃ」とおっしゃる。これも昨日御本部からいろんな、あの書き物を送って。きました中にね、新たな教祖の御理解というのが発表されております。御理解(?)だから、「金光大神御理解」という新たな、いわゆる御理解です。ちょっと眼鏡を。その中にね、こういうような御理解がある。
忙しか忙しか。水を飲みながら笑い「此の方も人間じゃけ、体に塩をしてはおらんから、いつまでも生きられるとはいかん。人間は生きどおしが大切じゃ。生きどおしとは死んでから後、人に拝んでくれるようになることじゃ」と言うておられます。人間がね、塩漬けじゃないっち言う訳です(笑い)塩漬けならいつまでも悪うならんけれどもね、塩漬けでないからいつまでも生きどおしに生きると言う事はでけんのだと、生神金光大神でも。けれども人間が生き通しに生きると言う事が一番尊いことじゃと。
生きどおしに生きると言う事は後々、後々でですね、人に拝んでもらえれるようになることじゃと。すると家の御先祖さんは皆、生きどおしであり、生神様かと言うと、そういう拝み方じゃない。あなたのおかげで助かったと。あなたのおかげでと。先祖に何々という人がおられた。その方が金光様の御信心を頂かれるようになって、家がこのように繁盛さして頂いて、子供に孫にいよいよ、日まさり、月まさり、年まさりのおかげが受けられるようになったというほどしのです。
例えば、私共にならなければならない。人間はこれが第一じゃと言うておられる。そこでですね、ただ今申しますように医者が見離したような病人が助かったというだけではいけないと。昨日私が朝頂きましたのはこの、いわゆる優雅な徳利であったが、その徳利というのが、「徳」と「利」と書いてありますよね。昨日私はあのう北野の福島さんの、お届けがあった。あの、またのお届けだった。そしたらあのそれを御神米をお下げさしてもらいよったらこの頃から、あの何ですかね。
「天と地と」というテレビがあっておりましたでしょうが。ああいう感じでですね「徳と利と」と頂きました「天と地と」ではなくて「徳と利と」とね。今朝からそれでまた、お礼参拝して来てから、もうあれを頂いても私、私の隣の人までがおかげを頂いたとこう言う。言うてそのお礼に出て来てきました。おかげだけではいけん。礼儀だけではいけん、義理だけではいけないと。ただ女房がよくなりましたと言うだけではいけない。それと同時にです、徳が受けられる、力が受けられる信心を頂かしてもらう。
教祖金光大神はその様な信心を教えられた。そういう信心をこそね、頂いた時に初めて、家の中が明るくなり社会が明るうなりね。それは真っ暗闇に明かりを灯す様なものである。ならそういう「信心とは、わが心が神に向うのを信心というのじゃ」という。信心とはそういう信心なの、金光様の御信心は。所が中々日頃はできませんけれども、何かがあります時に一心がつく。日頃改められないことが改められるね。
そういうことを思うたら、もう家にはじっとしておられない。教会に足が向くね。そういう、いうならチャンスを頂いた時にです、そのチャンスを生かして、これが徳であろうかこれが力であろうかというおかげを頂かなければならんのですね。今朝から北野の中村さんが「先生、もうほんなそこんにきをちょっと歩きよったら足がしびれたごとなってから、ちっとその具合が悪い。そりけどうぞ、おかげ頂きまする」とち言うてから言いなさったから私がね、「そこまでに歩かれるとが有難かばの。
今私がお取次さして頂いてあるの」ね。直腸ガンを手術さっしゃったね。お願いにみえた。して、ここんところに肛門が開いた。こっち側に。ここから大便が排出するね。ここで排出作用がある。お腹からね、大便が排出する。もう本当にそりゃあもうとにかく、なら便所に行ってからね、本当に大便に行けれること、小便に行けれること。そこまででも歩かれると言う事。もうそら大変有難いことはない。
私共はこれは、まあお粗末ながらです、今言う様に本当に眼鏡なんちゃかけたことがなかった者が、眼鏡が無けりゃ読まれんようになってからどん、初めて今までよく目が見えておったことをお礼を申し上げるようになった。もういつも私の体には水分がどのくらいか入っておらなければ、それこそ、生きていかれんごと、水分を沢山取らなければならないようになってきた。
そして、初めて健康の時の有難さが分かってきて。本当にまちっと早う分かっとらなければいけないのですけれどもね、人間ちゅうのはそういうふうに行き詰まった時にようやく分かる。もうこうしてお話しよりますけれども、この、歯がもう落ちようごとある。これはのりで貼っちゃるとです。そいでんもう、今は水飲むのも出来ん、のりがやわなっとります。それでここんにきまで落ちてきよる。(笑い)。
もう本当、いうならばとりどころが無いごとなってきよりますけれどもです、そのおかげを頂いてですね、ただとりどころが無くなってきよるけれどもですね、その都度に今までお礼の足りなかったところをしっかりお詫びさして頂きよる。しっかりお礼を申さして頂きよる。だから、これは私共が歳をとっていく、もう自然現象ですけれども、歯が抜けたり耳が遠なったり。ただ、それだけではいかん。せめて自然に起きて来るそう言う様な事柄を捉まえてはです、それを力にしていかなければならんと。
それを徳にしていかなければならないというふうに私は思います。わざわざと言う事はなかなかできません。昨日の御理解など頂いておりますと、「徳と利」というのは普段に日頃にです、の信心が出来る事によって頂かれるとありますけれども、私共の場合は何かそこにある時でなからなければ徳を受けるような働きができません。これはまあ生身を持っておる人間のことですから、仕方がないといや、仕方がないのですけれどもね。そこに私共が難儀を感じるような問題が起きた時です。
そこんところをただ、通り抜けるだけではなくてです。力を受けていく。徳と利とを受けていかなければならない。人間はね塩づけじゃないから、いつまでも生きどおしに生きておるという訳にはいかんけれどもね、私共が死んだ後にね、後々誰からでも拝まれるような私。亡くならっしゃる時にはそらもう大変な全市を挙げてのお葬式じゃった。それがだんだん年月が経つにしたがってね。こん墓は誰が墓じゃろうかと言う事になってしまう。と言う事ではいけない。
年々歳々、その例えば御霊様のお祭りがね、にぎやかになっていくほどしのおかげ。後々の者から感謝されるほどしの、私は生き方というものを身につけると言う事はね、それは信心生活の他にはない。ならその信心生活とはどう言う事かというと、私共はその都度都度により本当なことを覚えていくと言う事ね。
それを、私は秋永文男先生と、光橋先生のことにね、2人の先生の信心は素晴らしい。けれども神様はもっと素晴らしい本当なことを分からして、分からせようとなさっておられるのであるから、それはいわば子供の病気じゃない。いうならばおやり下さろうとする、分からして下さろうとする神様の御働きの他にはないね。と言う事になるんじゃないでしょうかね。本当のことが分かっていくと言う事は難しいことだと。
いうふうに申しますけれども、本当なことが分からして頂くと言う事は丁度運転免許を採らして頂くようなもの。今毎日高山さんの娘さんが毎朝、鳥栖まで運転の免許を採るために学校へ行きよります。何ヶ月かになるそうですね。そして段々車を動かし道を覚えたりね、いわゆるいろんなルールというものを覚えさして頂いてね、無事に運転ができるようになる。それまではやはり難しい。けれどもそれを体得してしもうたら、そんなに難しいもんじゃない。
皆さんでもやっぱり今日自動車でみえておられる。もうちょいと金光様にお参りするとに自動車が難しゅうしてどうこうされんと思うとんなさらんでしょうが。そりゃもうちゃんと運転免許採っとるからです。もうお参りもしたいばってんが自動車に乗らにゃんとがくうっとするっちゅうほど難しいことはない。(笑い)。もうそげなことは、もう眼中になかぐらい。そして、ここへついておられる程しにみやすいこと。信心の道も同じこと。本当なことが分かったらそのよう見やすいものね。
信心は見やすいものじゃが氏子から難しゅうすると仰せられるように。そういう本当なことがです、ね、何かの度々におかげを頂いていくというだけではなくて、何かの度におかげを受けるということと同時に、私はあの時にああいう力を受けたんだろうというものを頂いていかなかったら、神様はがっかりだろう思う。
子供を苦しめた。体を苦しい苦しい思いをさせた。そしたらその苦しい思いが無くなったというだけである。その苦しい思いはしましたけれども、おかげを頂いたそのあかつきにはこういう力を頂いておったということね。だからそこのところを私は合楽では頂かなければならんと思うんです。どうぞ本当なことというのは自動車の運転免許を採るくらいなものです。だからそれまでは難しいといやあ難しい。けれどもその方法を覚えさして頂くと何とはなしに動くことなる。
自動車がそして自分の思うように自分の手足のように自動車が動くようになる。神様はそれこそ、私共の手足のように、もう、と言うてはもったいないけれども、手足のようなこっちゃない。こちらがもう思う以上の働きをもって、私共の上に働いて下さるようになる。それをお徳というのであるね。だから徳を受けたら後は見やすいもんだと。そんためにはですいわばね、あんまりこのてるこさんちいいますけれども、高山さんの娘さん。信心の方は熱心じゃないけれども、最近は鳥栖まで行かにゃんけん。
さっちここまで遠回りして、必ずお参りしていくね。自動車のいわば運転の免許をもらうためには毎日何ヶ月間一生懸命それに取り組むでしょうが。だからそのくらいな取り組みをもって信心を体得するならばです、これは誰でも分からして頂けれる、頂けれるものなのですけれども。ただご利益さえ頂ければええと言う様な、安易な信心ですからね、一生おかげだけで終ってしまわなければならんと言う事になる。
お道の信心はどこまでも「徳と利と」が一緒に頂いていけれる信心。それにはね、これでよいと言う事は決してない。割り切れると言う事が絶対にないね。一生分からないままでしょう。割り切れないままでしょう。けれどもより本当なこと、いわゆる「わが心が神に向う」神になると言う事ではないに致しましても、わが心が神様に一歩でも近づいて行くという世界なのですね。そういう姿勢をとらして頂くところにね、おかげが受けられるというのがお道の信心なのであります。
先ほど信徒会長から、発表があっておりました。総会のこと。それからあ明日はしん、筑水信徒会の、幹部の御信者さん方がここへ70名から、入殿形式をとられての信心の、稽古をなさるわけです。ですから当教会の御信者さんとしては、入殿とまではいかんでもお参りをして、その話を頂くと言う事はできるのです。だから泊りがけと言う事じゃなくてもです。そういう意味合いでも一つでもやっぱり多く参加されて。
信心の稽古を習わしてもらうと同時に日頃合楽で頂いておる教えというものがですね。夜須の先生方のお話を頂いて、まあ一段はっきりと、有難いものに、こう浮き彫りされるようなおかげを頂けばいよいよ有難いこと。合楽の方達は何とはなしに井戸の中の、蛙でね外を知りません。だからそういう時に他所の信者さん方の御信心にも触れ、先生方のお話も、是非頂いて頂きたいと思います。
どうぞ。